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DRAGON、あるいは竜について…


dragon


どうしてドラゴンのフィギュアを作ろうと思ったかと云えば、
私が元々ファンタジーの世界にどっぷり漬かっていたからである。

初めて指輪物語を読んだ時、その物語自体のあまりの大きさと、
地に深く根ざしたような実在感に次第にのめり込んでいった。

こういう現実世界の何ものにも縛られない、寓意的でも風刺的でもない、
限りなく自由な、本物の場が創られうるのだと、胸の奥が拡がる感覚があった。

登場人物が生きていた。影が生々しかった。
トム・ボンバディルはこの世のどんな人間でもなく、
エルロンドの館はこの世のどこにもないような場所だった。

灰色のガンダルフはどんなヒーローよりも魅力的で、
太鼓の音と共に地下から迫って来るバルログはとてつもなく怖ろしかった。

佳境に入っていくと物語はどんどん重く暗くなり、
サムとフロドのやりとりには、自分の事のように傷ついた。


指輪物語からしばらくして、今度はル=グウィンの『影との戦い』に出会い、
物語の持つ強い求心力とそのあまりの完成度の高さに唸った。
ゲドの1巻を何度も何度も読み返しては、オジオンの言葉に酔いしれ、
『帰還』や『アースシーの風』の噂を耳にしては胸が高鳴った。

そのうちに、今度は『石と笛』に出会った。
欠点を持った「聞き耳」の旅に夢中になり、あまりにも壮大に展開していく物語に、
こんな名作が世に隠れていたのかと驚いた。

またある時には、真実を求めてさまようエルリック、最後のユニコーンのシュメンドリック、
ドラゴンランス戦記のレイストリンなどの物語を読み耽ったりもした。

力を持った物語は、現実を超えて私の内面世界を切り拓き、
そこに現われるスマウグやイエボー、カレシンといった竜たちは、
生そのものの深く重々しい、畏怖すべき真実を私に伝えてくれた。


映画のロードオブザリングがただのハリウッド映画になろうとも、
ゲド戦記が私にとって不本意な形で世に広まろうとも、
石と笛の表紙のイラストのイメージが、物語の奥深さに合ってなかろうが、
(安彦氏は「アリオン」などファンタジー絵師として認めてはいるのだが)
真のファンタジー物語の価値は揺らぐことなく私と共にあり、
そして自分の内面の深い部分に、ずっしりと息づいた『竜』の存在を教えてくれる・・・

そう、私の心の迷宮の奥底にも、不可解でどうしようもなくて、
それでいて大きな力を持った竜が、どうやら巣くって居るらしいのだ。

ビルの屋上や電車のホームなどで、突然飛び降りる衝動に襲われそうになったり、
厳粛な儀式の場で、急に荒々しく暴力的な破壊イメージが湧いてきたり、
真夜中にふと、暗黒で耐えがたい感覚に支配され、自分の存在が押し潰されそうになったり・・・

その自分を衝き動かす『竜』の存在を、私は幼少から感じ、怖れていた。

しかしガンダルフやゲド、和らぎの笛匠たちは、その『竜』の棲家にゆっくりと降りてきてくれるのだ。
彼らは決して竜を退治しようというのではなく、竜の存在を私に知らしめてくれ、
竜と共に生きていく道をひそやかに私に提示してくれる・・・





前おきが長くなりました。
遠回りしすぎましたが、要するに竜=ドラゴンというものは、
私にとっていろんな意味で、ある種特別な存在であるという事なのです。
ドラゴンには、何か自分が存在している事の秘密のようなものが隠されている、
と言っては大げさでしょうか。


一口にドラゴンと云っても、
東洋のいわゆる『龍』と西洋のドラゴン(竜)では種類がちょっと違うような気がします。
東洋の龍は細長く、角、髭が特徴的な場合が多く、翼はなくとも空に昇る。
簡単に言えばドラゴンボールの神龍のような姿が代表的でしょう。
どこか神格化された、天上の存在という感じがします。

対して西洋の竜は、巨大でずんぐりして、翼を持ち牙があり、火の息を吐いたりする。
大トカゲにコウモリ系の翼が生えたような姿で描かれることが多い。
怖ろしく邪悪で、圧倒的で生々しい、地下深くの存在。
そんなイメージがあるのではないでしょうか。

そもそも日本では悪的な存在は鬼や妖怪など人間に近いもの、あるいは人格化されたものが多く、
純粋に人間外の存在は崇め奉り、信奉する対象になり易いようです。

対して西洋のモンスターは明らかに人間離れした、人智及ばぬ異形の存在が多いように感じます。
悪=カオス(混沌)という西洋的な概念自体が、そのような存在を生み出すのかも知れません。
そしてドラゴンはその代表的なものであると言えるでしょう。


日本で西洋的な竜のイメージが一般的になったのは結構最近ではなかと思います。
それこそドラゴンクエストを始めとしたゲームの影響も大きいのではないでしょうか。

ドラクエなどのゲームの中で役割を与えられたドラゴンだって
その非日常的で圧倒的な存在感はそれ相応に感じられます。

初代ドラゴンクエストで、ダンジョンの中で初めてドラゴンに遭遇した時、
私自身、「うぉー!」と軽く感動したのを覚えています。

どんなにデフォルメされようと、矮小化されようと、
ドラゴンという存在そのものに含まれる危うさ、重さ、生々しさは、
完全に消し去ることはできないのです。

竜と出会うということは、何か自分の存在自体が試されるような、
そういう魂に響く要素があるのではないでしょうか。



学生の頃の英語の授業で、西洋のある竜退治の物語が教科書に載っていた事がありました。
その物語に登場するドラゴンの挿し絵が、体が細長く翼もなく、どうみても東洋の龍だったのです。

物語を読んで感想レポートを出すという課題があったのですが、
私は頭に血が上り、内容など無視して『ホビットの冒険』のスマウグの例などを出しながら、
「このイラストは東洋の龍と西洋の竜を混同していて、内容に全く合っていない」
云々というような文句や竜に対する解釈を、稚拙な英語で延々書き連ねて提出しました。

その英語の先生はネイティヴで、ほんとに英語ができる人以外には評価が厳しく、
大部分の生徒の成績がCだったのですが、英語の苦手な私が何故かBをもらいました。
みんなは不思議がっていましたが、私は成績よりも、
あの先生はスマウグを知っていたのだろうか!と妙な親近感を覚えたものでした。
(後にオリジナル版のホビットの冒険で、トールキン自身が描いたドラゴンの体が
かなり細長くて「龍」っぽかったのを発見して、ちょっと複雑な思いをしましたが)


ともかく、自分が造りたかったのは竜=ドラゴンを主題にしたものだったのです。
残念ながら、自分の中でイメージするドラゴンをそのままに造る技量が無い為、
DRAGONに至る過程のDRAeGONという感じで造り始めました。
いつかDRAGONになる日まで、という気持ちで。

しかし造っている内に、その存在が自分にとってもより身近になってきて、
触って遊べるDRAeGON、家で飼えるDRAeGONみたいな感じになってきました。
部屋に自分の竜がいるって、ちょっといいんじゃないか?的な。

DRAeGONは未熟ながらも私の手の中ですくすくと不思議な進化を遂げていってます。
もしみなさんの元で飼われているDRAeGONが居りましたら、
たまには向き合って相手をしてあげて下さい。



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